とある仕事現場の話

宗教法人に死亡保険金を寄付したいという。

 

かの日本で最大の仏教系宗教法人の学会員である。

 

普通死亡保険金は家族を指定するのだが、お金を払えば、公益社団法人や特定の支援事業を行う福祉施設宗教法人などに変更する事が出来るようになっている。

 

そんな話をしたところ、興味を持った。

 

よく知らなかったのだが、彼女が言うには年末に一口1万円から「財務」と呼ばれる寄付をすると、それ以上の何かが帰ってくる実感があると言う。

 

かの宗教法人は世界平和を目的としており、世界でも190カ国に学会員を持ち(信者とは言わないようで)、他の学会員は同じ世界平和を目指す仲間的な立ち位置になっているようだ。

 

世界平和の為の政治的な活動、被災地などの独自の支援などのためにはお金が必要で、その為にお金を差し出す事で参加するというのが、財務の考え方のようだ。

 

もともと、宗教の寄付はイスラムで言うところの「喜捨」やあらゆる輪廻的な考え方で、入ってきたお金を差し出す行為自体に意味を見出しているのかと思っていた。

しかし、(少なくとも彼女の場合)そうではなく、比較的具体的なカンパを目的とし、それが祖父の代から続いてきたお陰で生かされていると認識していた。

彼女は具体的な額までは教えてくれなかったが、年末の財務は大切にしていて、収入の割に沢山寄付している様子。

 

噂話などで外から聞くあらゆる宗教の話と違って、中にいる人と、個人的、具体的に話を聞く機会を持てたことは発見だ。

自分の思っていた感覚と少し違う理解でいることも理解できた。

 

世の中には様々な考えがあって良く、また信教も自由である。

 

ちなみに、個人的な意見として、宗教や政治政党などには意見がある。

宗教観をもつことは素晴らしい事だが、集団に飲まれず、個人でいる事を前提に生きていきたいし、皆もそうであってほしいと願うという点である。

 

どのような宗教であれ、人任せや集団任せの言動は当人にとって無意味だし、そういった洗脳的集団の力を外に発信するのは、孤独な市民にとっての大きな暴力となる。

フラットな議論にならない為、互いにとって不可解なだけだ。

 

集団の中にあっても、一個人の孤独かつ自由な思考を活用する。

学会員の彼女はいたって自然に話すことが出来、学びとなる時間を頂いた。感謝。

ラジオで聞いた話、マレーシア

ラジオ、結構好き。

理由は2点。

自分がわざわざ調べたりしない情報や、音楽などに触れることができる。

テレビなどと違い、その人の人となりが分かる程にトークを聞くことができる

 

本日TOKYO FMの「タイムライン」にて、ちきりんさんがパーソナリティで、取り上げたテーマはマレーシアマガジンの代表と話していた「辞める練習」について。

http://www.malaysia-magazine.com

 

マレーシアマガジンの代表(日本人女性)曰く

マレーシアでは、企業だけではなく、学校も向かないと思えばどんどんやめる。

日本人は、学生時代から辞める練習をしていない中で、社会人になってから、いきなり会社を辞めることを決断するとすれば、それは怖いですよね。と。

 

彼女によればマレーシアの特色として

小学校でも、本人が合わないと思えば何度も転校する。先生もより給料が良いところに転職したりする。それが普通。

さらには、最近選挙で野党が勝ち、選挙翌日翌々日をイキナリ休日にしたり、5月9日に可決された消費税の打ち切りを6月1日に施行している。

大都市でも良く信号が止まる。

 

が、国民は、一切混乱が起こることはない。

 

日常的な空間が失われている事に慣れており、大変だけど何とかやっていく国民性がある。また、誰かの失敗を長く批判したりしない。そんな文化の土壌があるのだそうだ。

 

今いる組織を辞める、部活を辞める。その先が必ずしも良いとは限らず、今よりももっと悪い事だって起きるかもしれない。そしたらまたすぐ辞めてほかの選択肢を当たっていく。

 

つまり、自己責任ということ。

 

個人的には、辞めた先のことを考えずに、まず嫌だから辞めるという考えにはスグ賛同はできない。さまざまなリスクを孕んでいるからだ。

しかし、日本にありがちな変化に対しての嫌悪感というか停滞感は、もっと深刻な問題だと思う。

 

具体的な話でないと細かな思考はできないが、人生は一度きり。自分の責任で自分の時間を管理して、幸せに生きていく事が何より大切だ。

 

だとしたら、変化に対してポジティブな姿勢でいたり、人の失敗に対しても寛容である事が大切なのかもしれない。

 

日本では、100年200年と続く企業が多いと聞く。また、歴史や伝統を守る事に重きを置いている。この文化は素晴らしい事だ。

不断の努力が必要な事を大勢の人で守っている。人生を超えて、社会性を維持している文化とも言えようか。それは大きな価値で、日本らしいよさでもある。

 

前半と相反するようだが、変化なら何でも良い訳ではない、継続には価値がある。

しかし、一個人としては、失敗を恐れる事や変化を避ける事が優先させるのではなく、自己決定を何度も重ねて、試行錯誤の人生を歩んでいく事がもっと求められて良い。

 

自分が無目的に続けている事があれば、勇気を持って断ち切ってみよう。

また、失敗が怖くてやっていない事には、改めてチャレンジしよう。

 

さまざまな示唆をくれた、そんな番組だった。

 

よく分からない仮想通貨

タイトルの通りである。

 

仮想通貨という言葉が一般的なニュースになる様になって久しい。

 

しかし、仮想通貨はよく分からんのです。

 

いや、仮想通貨そのものは多少理解しているつもりだが、よく分からんのが、取引所やウォレットなどの用語の意味や機能が多岐にわたり過ぎて分からない。

それを、取引所毎で、丁寧に教えてくれるサイトが本当に無い気がする。

しかし、実際お金に関わる問題である。故に、かなり調べる事に手間取っており、大変に面倒くさい!

 

まず、「取引所」と「ウォレット」はどう違うのか。ウォレットも、ウェブウォレット、ペーパーウォレット、ハードウェアウォレット、ソフトウエアウォレットなど、種類があり、それぞれ違う。

「出金」、「入金」という言葉がある一方

トランザクション」「送信」「受取」「両替」なんて言葉もあり、結構何が何だか分からない。

規制の掛かった取引所などに仮想通貨を保管していた僕は、いくつか持っていた通過を別のウォレットに移動するのに大変な苦労をした。

 

お金の関わる事なのに、何度もめげながら、相談もろくに出来ず(自分の使っていたサービスがニッチだった為)ストレスであった。

 

結果どうやったかはほとんど思い出せないが、2ヶ月ほど時間をかけて無事に別のウォレットに移動している。

 

新しいサービスを理解するのも、面倒な事である。逃げ続けると時代に取り残されると思うので、できる友人にいろいろ聞こう。。

 

yosakoiソーラン祭り③ボランティア

僕はボランティアが好きだ。

 

yosakoiソーラン祭りは学生が実行委員会を組織し、当日ボランティアも募って運営している(中心会場のみ)

 

ボランティアは字のごとく、自発的な組織であるべき。ただ、皆が勝手にやればいいわけではなく、組織的な規範が求められる。

お祭りの会場では、無理難題が多々起きており、習熟度の高いスタッフが見て回っても、意外と目に届かない穴が出てくる。

(主に導線確保の為の人の配置について)

 

そういった環境の中で、踊り子のため、観客の為、に尽力している学生はエライなぁと素直に思った。その割に、やっている時に顔が活き活きしている人は少なかったりする。

 

おそらく、2種類のタイプがおり

 

1.自分が居ないと現場が回らないと危惧するヒーロー及びヒロインタイプ

2.人の為に動いたり、頼まれた事に応える事を目指すタイプ

 

まあそれ以外にもいろんな人がいるんだけど、彼らがいるからこそ、祭りの楽しさが存在する事は間違いない。

祭りの主役は踊り子である、ただ、それを支えるボランティアが居なければ、踊り子は育たないし、存在もし得ない。

社会人になったあとだと、マネージャー的な役割でもあったりするなぁと、また親の様な役割でもあるなぁなんて思った。

 

所変わって、東京の町会における祭りの実行委員会となると、数十年間の引継ぎがほとんど同じメンバーで共有されており、スタンスや計画は確立されている。

(ただし、新しい風やアイデアは中々生まれないけど。最先端である必要はないので、それはそれでいい)

 

一方学生の実行委員会は兎に角引継ぎがうまくいかないまま、やる事だけが山積み状態で追われているスタッフが非常に多い。

抜けていくメンバーも多い。。それは、残念なことだけど、健気に祭りを支えている彼らに賛辞を送ってあげたいオジサンはここに一人いるよ。

頑張れ!

 

さて、冒頭の話につながってくるが、祭りのボランティアスタッフも、町会のおじさん(お爺さん)達も、自発的に、組織的な行動を取っている事は何より尊いと思っている。

自分も、裏方の魅力ってやつを少しずつ後世に残したいなぁ。。

yosakoiソーラン祭り②OB

7年ぶりにyosakoiソーラン祭りにボランティア、観客、昔所属していたチームのOBとして参加してきた。

 

今回は、所属チームのOBとしての視点。

 

底抜けな元気と気合が取り柄の大学生チームの、元気と気合が昔通りに引き継がれていた事は嬉しい事だった。

 

一方で、後輩にとっては厳しい感想も持ったので、俯瞰的、分析的に書いてみたい。

 

感想①根っこが大事

元気の源は何だろう?何で元気なの?という根源を持っているか。

人気チームの一員として踊っている彼らは、観客からはチヤホヤされて楽しいと思うので、他のチームより場が温まって踊り子をやっている。元気な声を出せば「いいね」が貰える。

 

けど、それだけでは大学生としては中身が薄すぎる。「拍手を浴びていい気になってるバカ」と言われたとして、明確に否定し、熱く語れるか。

そう、真顔で語れる夢や目標やビジョンがあることの方が、学生生活にとって大事なのである。

 

 

感想②審査に勝つなら、分析と戦略と計画と練習せよ

 

僕が現役時代だった頃と比べて、審査のレベルは圧倒的に上がってきている。その事を考えると、他チームと比べて、毎年の踊りのクオリティへの成長スピードが遅すぎる。

(そもそも毎年新しい踊りを各チーム1から作っているチームが殆どである事は冷静に考えるとかなり驚くべき事実だが、今は置いておこう。)

一人一人の個性を出す前に、揃える踊りをキチンと揃えて踊らなければ、練習不足としか感じられない。つまりは幼稚なのである。それで勝てるほど甘くはない。(結果は全体の10位までが優秀とされ、今回は20位以下であった)

勝つためには、まず分析する事。そしてチームの特徴を捉えて、勝機を見つけ、足りない部分を補う計画を立てて、出来るようになるまで練習して本番に臨む。

今回の現役チームには、残念だが全てにおいて足りなかったと言わざるを得ない。

審査で勝ちたいならば、幹部メンバーの考え方にテコ入れする必要があるだろう。出来ないことは絶対にない。全チームが素人であるからには。

来年に向けて研究し、幹部で意見をまとめて勝機を見つける(秋まで)

来年の踊りを作り込み、外部からも意見をもらって修正する(新入生が入るまで)

徹底的に練習し、チーム一丸となって、ハートの部分も鍛えて勝てる確信をもってお祭りに臨む(お祭りまで)

まぁ、目標や夢は向かっていく最中の苦労こそ楽しく、結果は本人たちにとっても実はどうでも良い事になる。

楽しい思いを共有した仲間よりも、苦しい思いを共有した仲間の方がずっと価値があることは、悔しい思いをした今回の現役に、今伝えたい事である。

 

 

感想③お祭りのホストたれ

 

yosakoiソーラン祭りは札幌にいるチームの「本祭」と言われている。

人気チームになって久しいチームには、自分たちの踊りの出来栄えもこだわって欲しいが、主役として、遠路はるばる来ている観客や他チームの踊り子、チームファンの皆さんをもてなす気持ちを持って過ごしてもらいたい。

 

小さなことでも良い。たとえば特定のハッシュタグをつけて写真をアップするキャンペーンとか、握手やハグや法被の貸し出しとか、そんなところからでもいい。個人的には実行委員会の手伝いを札幌の各チームの法被を着た人がやってほしい。チケットの販売とか、物販とか、きっと増えるんじゃないだろうか。

自分たちの事だけでなく、周りの人と一緒に楽しんで、お祭りの中心になって貰いたい。

あまり長い時間現役を観ていたわけではないから推測になるが、もっとお祭りは楽しいものに出来るはずだ。

 

3項目なのにたくさん書いてしまった。

ボランティアについて、書くことがあるだろうか。

yosakoiソーラン祭り①観客目線

学生時代、関わっていたお祭りである。

 

今年2018年、7年ぶりにボランティア及び、観客、昔やっていた所属チームのOBとして参加してきた。

 

yosakoiソーラン祭りは、一般市民が「街は舞台だ」を合言葉に、札幌の目抜通りや市内各地の道路を封鎖、或いはステージを設置して踊りまくるお祭りである。

 

日本全国はおろか、海外からの参加者もおり、踊り子は延べ3万人、観客は200万人を超える夏の風物詩となっている。

 

観客目線でこのお祭りに思う事は、パワーを貰いたい、感動したいと期待していて、それが至る所で感じられるお祭りだという事。

一方で、特に目抜通りのパレード演舞は無料で見られる範囲が狭く(植木などがある為)子供などはまず何も見えない。大きな音が通り過ぎるだけだろう。

200万人という人数は延べとはいえとにかく多い!見づらい。綺麗に演舞を観るなら絶対テレビ放送を見たほうが良い。

 

でも、じっとしていればダウンコートを着ても凍えるような6月の札幌の街は、観客で溢れている。全体的に人数は減ってきたとはいえ、何故来るのか。

 

大きく3つの観客層に分かれる

 

1.特定のチーム或いは踊りのファン

2.元気な雰囲気に触れに来る人

3.各チームの友人知人OBなどの交流目的

 

特に、2の人は多いと思ったのは意外な気付きだった。踊りが見えなくても、チームが集まっている所の近くでチームを見ていたりする人だ。あるいは、ほとんど踊りの全体は見えない人垣の奥の方で観ている人。

 

彼らは積極的に踊り子に関わったりはしないが、お祭りの賑わいの中心から少し離れたところで、楽しんでいる。

彼らがいるからこそ、盛り上がっていると言うことをあまり意識していなかった。

 

何度も言うが、現場はめちゃくちゃ寒い。居るだけでかなりしんどい。でも、多くの人が、それぞれの楽しみのために、ワザワザ、祭りに足を運んでいる。それだけのエネルギーが祭りにあるのだ。祀るものは無いけど、祭りに必要な非日常的な空間とハレのエネルギーを持っているから、人は集まっている。

 

僕も昔踊っていたので分かるのだけど、踊り子も寒い。寒いとはいえ踊ったりしていればテンションで何とかなる。

もし昔の踊り子に戻れたなら、もっともっと観客に、それも奥の方の観客や裏方のスタッフに感謝したいと思った。

 

そして、踊り子は「祭り」の主役なのだから、観客の事を忘れないでほしい。

踊りや態度を見れば、観客を魅せようとしている人か、自分に陶酔しているか、チームメンバーに心が向いてるか、何となく分かるものである。

どんな踊り子がいても構わないけど、お祭りなんだから、冷めるような踊りはやめて欲しいと思う。

 

踊り子あってのお祭りだけに、観客と共に楽んでくれよ。っていう価値観だ。

 

価値観の話だけに、統一することは難しいと思うが、個人的に思う冷めるようなパターンは

 

①踊りが下手、揃ってない(練習不足を感じる。子供は可愛かったりするから逆に良い時も)

②踊り子の目が死んでいる(疲れを顔に出しすぎ)

③観客置いてきぼり(内輪ノリで楽しいっすオレら的な盛り上がりを見せる。学生チームに多い)

 

みたいなケースだ。

yosakoiソーラン祭りは審査などがある為、観客との境界が割とはっきりしている。ただ、コンテストではなく、祭りだと言うなら、空間を共有している人全員が、非日常的な何かを感じられるような時間となるべきだ。

 

ボランティアの観点、OBの観点でも、考えてみたい。

再読!伝え方が9割

以前読んでいて、読み直した。

目がぱちっと覚めるほどに、反省した。

 

読んでいる人も多いと思うが、佐々木圭一氏が書いた、「伝え方が9割」である

 

https://www.amazon.co.jp/伝え方が9割-佐々木-圭一/dp/4478017212

 

内容は後で抜粋する。

何が「反省」に繋がったかといえば、営業の仕事をしていながら、基本のレシピにのっとらず、我流のコミュニケーションで悩んでいたからだ。

 

本文にもあるが、料理に関してもレシピ通り作れば美味しい料理になる。

マチュアがレシピなく作れば、うまく行くときもあれば、うまくいかないときもある。

 

コミュニケーションもそうだ。

意識していれば、これまでのコミュニケーションが陳腐に感じる程、レシピを十分に理解した後のコミュニケーションは抜群に良くなる。刺さる。

 

情報があちこちに大量に散らばっている現代においては、コンテンツの充実以上に、直感的な感動が人を動かす。(コンテンツを軽視しては元も子もないのは言うまでも無い。ここでは敢えて表面的な部分での話)

 

鍛え直そう。

そう、レシピに則ってだ。

 

いいレシピ(本とか)あれば聞きたいのだ。

 

内容抜粋

◆お願いの基本

1.頭の中をそのまま言葉にしない

2.相手の頭の中を想像する

3.相手のメリットと一致するお願いを作る

 

◆イエスへ向かう切り口

1.相手の好きな事にする

2.相手が嫌いな事を回避させる

3.選択の自由を与える

4.認められたい欲に触れる

5.あなた限定

6.チームワーク化。一緒であることを示す

7.感謝

 

◆強い言葉をつくる

1.サプライズ法「!」

2.ギャップ法(反対語とセットで言葉を作る)

3.赤裸々法(体の変化をセットで言葉を作る)

4.リピート法

5.クライマックス法(接頭語)

 

 

プライベートまではなかなかコントロール出来ないが、仕事に活かしていこう。