くつろぐ

年に一度の連続休暇中である。

 

くつろいでいる。実にくつろいでいる。

 

毎日仕事のこと、特にこの後連絡しなくてはいけない人に対しての考え事を断続的にしているため、この連続休暇は貴重である。

 

仕事から帰ると、服を着替え、食事をとり、風呂に入り、風呂を洗い、食器を洗って、歯を磨き、その間子供が泣けば遊んでやり、、、

 

家にいるときも昼寝以外はなにかと動いて、常に「何か」を考えて「何か」している。

 

私以外にも、そんな日々送っている人、少なくないのではないか。

 

そして急な、ちょっとした暇ができると、嬉しさ半分、やることがない落ち着かなさ半分である。

 

なんだかロボットみたいだなぁ。やることがないと落ち着かないって良いのかな。そんなことを考えた。

 

そもそも、ロボットはくつろがない。というか、役割からしてくつろぐロボットなら不要、だと思う。

でも、人間ならば、休息の意味以上のくつろぎは必要なのだろうか。

人間とロボットの違いは、基本的なミスをするかしないか、迷うか迷わないか、休む(サボる)かサボらないかなど色々あるけど

 

自分が何をするにも主体的に自由である。

という感覚は人間にとって大切な気がする。

 

すると、冒頭の話とは変わるかもしれないが、「何か」をし続けるか、考え続けるか否かではなく、自分で決められる裁量が大きいか、小さいかが、自分の感覚の中で大切なのかもしれない。

 

突然与えられた過度な拘束や、過度な自由はストレスである。

多少の環境変化も許せない、張り詰めすぎた自己管理も、時代の変化を考えると危険である。

 

であれば、いつでも変化できる柔軟性を持ちながら、自分の自由の裁量をキープしよう。

柔軟で自由な時間をもち、なんの目的もない時間も焦らず、時が来るまで待つ。

 

くつろぎ方についてこうして考えて、多少くたびれた。休息失敗である。